親子でやりたい仕事をめざして! 豊島区在住 中村さん

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42歳、お子さんは息子さん3人。長男:建築を学ぶ大学生、次男:調理師として活躍の社会人、三男:高3、将来はパティシエ!はあと飯田橋初回来所は、2017年5月。


〜中村さん インタビュー記事〜

◆ 副業を模索してはあと飯田橋へ

— 初めてご来所いただいたのは、2017年5月でした。そのときの経緯を教えていただけますか?

 そのときは離婚して3年ぐらいでしたかね。当時僕は、薬屋をやっていて、お店と家との行き来を20年近くやっていました。離婚となったときに、情報を持っていなかったので、区役所のひとり親担当部署や子育て相談のグループなどを回って、様々な団体のチラシを集めてたんですね。はあと飯田橋のメルマガも申し込んで、とにかく情報を集めていました。

 2017年に、店のはす向かいに大手のディスカウントストアができるということがわかったんです。個人経営の薬局ですから、太刀打ちできません。パートさんを雇ってましたので、店を畳むわけにはいかない。僕の給料をゼロにすれば、パートさんひとり分の給与はまかなえるだろうということで、僕自身の副業を探したいと思ったのがきっかけです。子ども達のために稼ぎを上げたいというのもあって、よし、はあとさんに行こう!と。

—お店とご自宅の行き来するお忙しい毎日でも、副業を探そうと積極的に動かれ、はあと飯田橋にいらっしゃったのですね。

 そうですね。3人の子ども達が、それぞれ将来の仕事を見つけ始めたときでした。もちろん、本人達が自分で道を切り開いていくしかないわけですが、先々困って「親父、俺これからどうして行ったらいいだろう」と頼ってきたときに、僕自身には子どもが将来行きたい業界の知識もないし、知り合いもいない。もしかすると、僕が副業探しで知り合った人達が、将来、僕の子ども達を助けてくれるかもしれない、という思いもありました。

—人と人の繋がりを大切に考えていらっしゃいますね。大規模店の出店は、困ったことだったけれど、そのことをきっかけに世界が広がったのですね。

 苦しんでらっしゃる方にこんな言葉はかけられないし、僕自身渦中にいたらこんなことを言われたら腹が立つと思うんですが、「どんな出来事でも将来糧になるときがくる」と思うんですよね。いろんなことがあっての今の自分だと思ってます。実は、僕は2番目の子どもが双子だったんです。1年で死別するんですが、そのときに「時が解決するよ」とか「いつかそれを振り返れるときがくるよ」とか言われたら、反発すると思いますけど。でも確かに、僕の根底にはその事実があって、それがあったからこそ、離婚もあった。なければよい事もあったけれど、あったからこそ、今の自分がある。

—いろんなことがあって、今の中村さんがある。

 そうですね。それをまた子ども達が見てくれてますから。 

 

男親の苦労

—離婚後の男4人の生活、ご苦労はありましたか。  弁当最初.png

 あたりまえですけど、家庭って二つの価値観があったほうがいい。どっちか片方の価値観で育てていかなくちゃいけないと、間違いがあったらいけないので、より慎重になる。二人そろっていれば大胆なことができるけど、一人だとそうはいかない。視野は狭くなりがちだし、背負っているものも重いということですかね。

 シングルの家庭はどちらも同じだと思いますが、異性の親の役割も果たさなくてはならないことが大変でした。母性というかね。具体的な話をすると、女性の世弁当上手.png界の常識がないんです。一番困ったのはお弁当でした。いろどりとかおいしそうに見えるレタスの敷き詰め方とか知らないんですよ。本で勉強したり、人に聞いたりしました。なるべくバランスよく、見た目もきれいに。子どもが弁当のふたを開けたときに肩身が狭い思いをしないように。少しでもあの子達のマイナスにならないようにって、必死でしたね。SNSに密かに写真を載せてたんですけど、今見てみると少しずつスキルがあがっていて面白い。そんな細かいことを一つ一つこなして今日まできました。

—お子さん達への思いがとても強いのですね。

 すべてですからね、ただ、今度はもう手放す時期だと思ってます。一番下が来春高校卒業。自分の目標も道受かり、それに向かって進んでいってもらうだけです。

 

◆ 子ども達の将来の道を見つける手助けのつもりが 

—高校を卒業する前から、息子さん達はそれぞれ将来なりたい職業を具体的に見つけられたのですね。

 そのために動きました。離婚時はほったらかしでしたので、学力もどん底でした。そこからの再スタートでした。留年しそうだとか、進路を考えるときとかに「やりたいことないのか」と。この5年間はずっと言い続けてました。「何だっていいんだ」「違ったと思えばやり直せばいい」「楽しいって思えることが一番だぞ」って。僕が今こうして理容師目指しているのも、40のおじさんの俺だって、こんなことできるんだぞって見せてるつもりです。言う以上、自分が一番できてないとね。そう思ってずっと子育てしてきました。

—理容師を選ばれたのは、やはりやりたいことだったからですか。

僕はもともと美容師をやりたかったんです。でも、親は「家業を継げ」と。高校を卒業するときに僕が折れました。その後は薬屋一筋です。はあと飯田橋に相談に来て副業を探している中で、介護タクシーとかも考えて、介護職員資格取得支援事業で初任者研修受けに行きました。十数名のクラスメイトがいてね、その中に、僕の息子ぐらいの子達もいたんですよ。支援事業ですからね。いろんな経験をしてどん底の中で通ってきている子たちもいるんです。そんなクラスメイト達や、息子達のことを考えていたときに「あれ、俺ってずっとずっと美容師になりたかったよね」っていう思いが湧いてきたんです。薬屋を継いだのは親に言われたからで、なりたかったのは美容師だって。この先ずっと、今までみたいに「何で薬屋やってんの?」って聞かれたときに「いや美容師になりたかったんだけど」って言い続けるのかなって。

—息子さんたちのためにかけてこられた言葉が、ご自分にかえってきたのですね。

 たくさん集めたチラシの中に、理容師資格取得支援事業のものもあったんです。でも、今日のあの子達の飯すら困っている中で、とてもじゃないけど、3年間学校通うのは考えてませんでした。介護タクシーや夜の仕事でガードマンも検討していました。「手っ取り早いのは、近所の弁当屋だ、弁当屋にしよう」って決めかけてました。学校に問い合わせたら1週間後が入学試験だったのです。

—すごいタイミングですね。もうやるしかない!実習中.png

 そうですね。直接のきっかけは自分の中の蓋をしていた気持ちに気づいたことですけど、ここにくるまでにいろんな方々にお世話になっているんです。そして、いろいろな支援制度を使わせていただきました。理容師の資格も来年取れるし、初任者研修・登録販売者の資格もある。亡くなった娘のことがあったので、救急救命の資格もとりました。子ども達が自立した後は、僕ひとりだったらなんとでもなる、と自信を持てるようになりました。ありがたいです。だから、お返しできるものは返したいなと思っています。

—情報を積極的に集められたのも、思い切って支援制度を活用されたのも、中村さんですね。けして楽な道のりではなかったと思います。

 他人からは、僕はなんの悩み事とかないように見えるようで、だからできたんだと思われるかもしれないけど、僕は特別秀でた人間でもないし、恵まれたものをもって生まれてきたわけでもない。僕が出来たことぐらい、みんなできると思うんです。父ちゃんができたことなら、子ども達にも軽く超えてもらわなくちゃ困りますし。違いがあるとすれば、とにかくやり続けてきたことかな。必死でやってきました。


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 人との繋がりを大切になさって、ご自身とかかわりのある方々に感謝の気持ちを常に持ってらっしゃる中村さんを、お子さん達はしっかりご覧になって成長なさったと思います。笑顔に隠されたご苦労はまだまだ、語り尽きないのでは、とも感じました。いろんなことがあって、それがすべて今のご自分を造っていると、すべてを受け入れてらっしゃる言葉が印象に残ります。

 

 

 

 


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